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「どうする家康」に対しての非難めいた記事について
非難の大筋は、ドラマというのは脚本家の創造であることは、ある程度は致し方ないが、大河ドラマという社会的影響力が大きいものに、これほど史実と異なる脚本は、いかがなものかといった心配めいた論調が大半を占めている。
そこで、私個人の意見を述べたい。
個人の感情の動き、感情の動きからくる行動、等など、その個人ですら分からないものではないか。
自分自身を確立していく。
これは後から自分自身で考えたこじつけではないか。
そのこじつけは、筋が通るように作られていく。
筋が通ったところで、肉付けし、他人に認識され、それが手枷足枷として、個人を覚醒していく。
それは同時に他人の評価となり、偉人へと形成されてはいくが果たして、その個人の内面は自分でも分からない世界で彷徨っているのではないか。
そうやって彷徨い続けるのが人間ではないのか。
好奇心旺盛な人間こそ、自分の欲求を満たすため、あらゆる文献を研究し、自分なりの理解と答えを導き出そうとする。
その心のひだに隠れたものに焦点を当てようと、このドラマが作られているように思える。
作者については、前にも書いたがこの時代の問題点の深層、例えば、人の関心が何に向いているのか瞬時に分析でき、その関心を煽る広告や報道、私のような知識が薄い者による軽薄なSNSが氾濫し、人をいとも簡単に傷つけられる社会に、疑問を持ち一石を投じているのではないか。
ここのところ報じられている首無し死体遺棄事件での家族、人格分析報道等みると、人々の好奇心に止むことはないだろうが。
結果的解明できる者は少ないといえる。
それはその専門的分野である精神科の医者が絡んでいることでも実証される。
つまり、実際に見てもいない、肌で感じてもいない、過去の事案にどれだけ、個々が理解できるか、当人でも理解できないことが、実際には起きているのではないか。
事実が一つしかないとしたら、深山弁護士ではないのだから、いくら歴史学者でも突き止められているとは、はなはだ疑問であるということである。
私の中では、そういう学説もあるのですね。
では、一つの意見として聞いておきますという程度である。
大して、好奇心旺盛ではないので!
それよりも楽しんでいるドラマに、目くじらたてて冷や水を浴びせなくても良いのではないか、と言っておきたい。
信長の言葉に、人を信じるな、という言葉が出てくる。
本当の信長は人を信じない訳ではないといった記事もあったが、このような記事を書く人は、この信長の言葉を真に受けてしまったのですね。
素直な方たちなのですね。
なんてね。
つい、こんなブログを書いてしまうでは、あ~りませんか・・・
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